ワシ氏、決定的な墓穴を掘る

そこで止めておけばよかったのに、「十条敗れたり」とか「十条は完全敗北した」などと虚勢を張る。

哀れな (ワシ。十条敗れたり!)
2008-04-13 12:01:58

十条は完全敗北した。
(^-^)v ちょき

ついに決定的な自爆的発言が。

指揮官は田山さんだよ、
第一大隊田山芳雄大隊長。

だから、サヨクは言う訳さ!
山田旅団長も両角連隊長も目撃者では無い!
栗原氏は目撃者だ!・・・どちらの言う事を信じる?
さあさあさ!!??
・・・・ってね(笑)

言っておくが、下っ端の兵隊の証言よりも、
上層部の方が「ことの経緯」に関しては遥かに詳しいんだからね。
山田氏も両角氏もその証言を読むと、
(何かを隠しているなぁ・・・)と思うけれども、
全体的な流れとしては信頼できるモノだと言う事だ。

ワシ氏はなぜ「現場を目撃していない」両角証言を信用するのか?
その論拠が
「下っ端の兵士よりも上層部の方が「ことの経緯」に関しては遥かに詳しい」から「全体的な流れとしては信頼できる」からだという。
両角が虚偽の内容を書く可能性を無視した、盲目的な「信頼」にすぎないことを自ら暴露してしまいました。

両角は12月16日の捕虜殺害について記述していません。
しかし、下級兵士の陣中日記には、何と7人の日記等から16日の捕虜殺害の記述が出てきます。
ここから、両角が16日の捕虜殺害を隠蔽しているということはほぼ疑いありません。

それなのに、「両角手記」を「下っ端の兵士よりも上層部の方が「ことの経緯」に関しては遥かに詳しい」から「全体的な流れとしては信頼できる」などと言い切ったワシ氏。

「十条、完全敗北」などと強がろうとして、決定的な墓穴を掘ってしまいました。


なお、16日の殺害に触れている7人の日記等を以下に転載します。

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen5.htmlより転載。

 「自衛発砲説」が有力視されていた時期には、「虐殺」は十二月十七日に行われた一回だけ、ということが当然の前提となっていました。「両角手記」にも、それ以外の「虐殺」の存在を匂わせる記述は登場しません。

 しかし研究の進捗に従い、十七日の大量虐殺と別に、「十二月十六日にも虐殺があった」という認識が今日では定着しています。まずは、阿部輝朗氏が発掘した、「佐藤一等兵」の日記です。


阿部輝朗氏が発掘した、「佐藤一等兵」の日記。

「佐藤一等兵」日記
12月16日
 朝七時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕へるため行く事二里半、残兵なく帰る。昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。直ちに残兵に備えて監視。あとで第一大隊に警備を渡して宿舎に帰る。それから「カメ」にて風呂を造って入浴する。あんなに二万名も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。

夕食を食してから、寝やうとして居ると、急に整列と言ふので、また行軍かと思って居ると、残兵の居る兵舎まで行く。残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。考へて見れば、妻子もあり可哀想でもあるが、苦しめられた敵と思へば、にくくもある。銃撃してより一人一人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になって、ものすごい。これも戦争か。

午後十一時半、月夜の道を宿舎に帰り、故郷の家族を思ひながら、近頃は手紙も出せずにと思ひつつ、四人と夢路に入る。(南京城外北部上元門にて、故郷を思ひつつ書く)

(「南京の氷雨」P25)

宮本省吾少尉。

<宮本省吾>陣中日記
歩兵第65連隊第四中隊・第3次補充・少尉
〔十二月〕十六日

警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P134)

遠藤少尉。

<遠藤高明>陣中日記

歩兵第65連隊第八中隊・少尉 第三次補充
 十二月十六日 晴

 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に遭ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し?にて射殺す。

(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P219)

本間二等兵

<本間正勝>戦斗日記

歩兵第65連隊第九中隊・二等兵

十二月十六日
 午前中隊は残兵死体整理に出発する、自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらー、捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P239)


菅野一等兵

<菅野嘉雄>陣中メモ
歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵

〔十二、〕十六
 飛行便の書葉(葉書)到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。 (『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P309)

近藤伍長。

<近藤栄四郎>出征日記
山砲兵第19連隊第八中隊・伍長

〔十二月〕十六日

夕方二万の捕慮が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分ノ一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P326)

黒須上等兵

<黒須忠信>陣中日記
山砲兵第19連隊第三大隊段列・上等兵

拾二月拾六日 晴

 午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯(蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面 に向ふ 、二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、自分も此の時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。

 山となって居る死人の上をあがつて突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切つて見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であつた、

(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P350-351)